NOTES

曲目解説

P.チャイコフスキー:スラヴ行進曲 変ロ短調 作品31

長年オスマン帝国の宗主権下にあったセルビア公国は、1876年に独立のため帝国に宣戦布告したが、圧倒的な兵力を誇る帝国軍に大苦戦し、同年6月、非戦闘員を多く含むスラヴ系キリスト教徒が大量に殺害されるという事件が起きた。同じスラヴ系キリスト教徒が主体の帝政ロシアは、同胞を助けるという名目で派兵・介入したのが露土戦争である。 チャイコフスキーの友人であり、著名な指揮者・ピアニスト・作曲家であったニコライ・ルビンシテインは、事件の犠牲者のための追悼・チャリティ演奏会を企画し、チャイコフスキーに作品を依頼した。義勇に駆られたチャイコフスキーはわずか5日間で『民族共通の主題によるセルビア=ロシア行進曲』を完成、同年11月5日にモスクワで初演された。作品は熱狂を持って迎えられたが、初演後さらに手を入れ、【スラヴ行進曲】と改題したものが今日広く知られる本作である。

「中庸に、葬送行進曲の装いで」と指定され、低音による変ロ音の重々しい歩みで開始される。セルビア民謡『太陽は明るく輝かず』のエキゾチックで哀感漂う旋律、暖かく快活な『懐かしいセルビアの戸口』、勇壮な『セルビア人は敵の銃を恐れない』が引用されている。遠い地の苦境に喘ぐ同胞へ手を差し伸べるような甘い旋律がヴァイオリンによって歌われ、ロシア人の同情心が示される。そして何より帝政ロシア国歌『神よ、皇帝を護り給え』の引用が、ロシア人の義勇心と愛国心をくすぐり、聴衆の熱狂的な支持を得たことが容易に想像できる構成になっている。戦場の緊迫感を伝えるように、4/4拍子と12/8拍子が同時進行するが、差し詰め前者がセルビア軍、後者がオスマン帝国の大軍を象徴するかのように対峙し、次第に帝国軍の包囲が迫るような切迫感がスリリングに描かれる。駆けつけたロシア軍とセルビアの連合軍がついにオスマン帝国軍を撃破し、帝国軍がほうほうの体で退却する様子を経て、勝利の凱旋、そしてロシア国歌がその後半部まで荘厳に歌われ、華々しい大団円の中、変ロ音のユニゾンで力強く終結する。のちのソ連時代には帝政ロシア国歌の部分がカットされて演奏された。

(解説:諸岡 範澄)

J.シベリウス:騎士のワルツ 作品96c

フィンランドの最も偉大な作曲家と称されるシベリウスは、91歳という長寿に恵まれたが、若い頃から見られた「完璧な作品」への志向が年齢とともに一層強まる一方、アルコール依存を伴う鬱症状に悩まされ、交響曲第6番(1923)、同第7番(1924)、劇付随音楽【テンペスト】(1925〜26)、交響詩【タピオラ】(1925)などの傑作群を最後に、その後着手したものの結局焼き捨てたという交響曲第8番を含めて、ほとんど作品を発表しなくなり、最後の約30年間は、請われて時折指揮をする以外は、事実上の隠遁生活を送った。

【騎士のワルツ】は、最後の傑作群に取り組む少し前の、創作期の晩年に入った頃の作品である。単発のピアノ用小品を、同じくピアノ用の【抒情的ワルツ】(1919)と共に管弦楽用に編曲し、ソプラノとメゾソプラノの歌詞なしの二重唱を伴う管弦楽曲【昔々-田園的情景】(1919)と組み合わせた【3つの小品】作品96(1919〜20)の3曲目に置いたのが本作である。いずれの曲も簡明な表情を持ち、シベリウスが独自に探求して来た先鋭的な表現は影を潜め、むしろ退行的とも言えるオーソドックスなスタイルを採用しているが、それでもそこここに滲み出す「らしさ」を聴き取ることが可能である。 本曲は前2曲よりも金管楽器群を重用しており、軍楽を連想させる「付点リズム」を纏った無骨さと、ワルツの優雅さを併せ持ち、重い鎧兜を装着した騎士が意外と身軽に踊る、といったミスマッチ感が特徴的である。 シベリウスのオリジナルスコアはチューバを含んでいないが、今期の五美管のコントラバス団員が少ないこともあり、主に同パートを補強するためにチューバパートを諸岡範澄が加えた版でお届けする。

(解説:諸岡 範澄)

J.シベリウス:アンダンテ・フェスティーボ 作品J34b

交響曲第6番の前年、フィンランドの中央に位置するスオミ県の自宅にほど近い、創立25周年を迎えるサイナトゥサロ製材所の記念祝賀会のために依頼、作曲され、同年12月28日の同会で初演された。初演時は弦楽四重奏編成であったが、新作を発表しなくなって数年が経った1930年に、コントラバスと任意のティンパニを加えた弦楽合奏版に編曲した。時折企画された、自作を指揮する管弦楽演奏会用の編曲とされ、自身でも気に入っていたようで度々採り上げており、1939年には自演では唯一とされる録音も残している。 Festivo(祝祭的な)という華やかなイメージとはやや異なり、ト長調の穏やかで荘重な響きが推移するが、その主要旋律の冒頭部分は、ドヴォルザークの交響曲第9番ホ短調【新世界より】第4楽章第1主題とほぼ同一であり、同作品からインスピレーションを得た可能性がある。ト長調の平行調であるホ短調の仄暗い響きを度々挟むことで、製材所の25年の歴史の中であったであろう苦労にも想いを馳せさせる。第2ヴァイオリンと低音弦が、大きな鐘を交互に打ち鳴らすような伴奏に乗って、第1ヴァイオリンとヴィオラのオクターヴユニゾンで滔々と寿ぎが歌われる様子は心に沁み入るようである。高揚の頂点でイ長調の輝かしく澄み切った響きに満たされた後、ト長調に復帰し、変奏を含んだ主要旋律が短く再現されるのに続き、寿ぎが今一度歌われる。そして再び主要旋律の素材を使い、最後にティンパニが加わるト長調の「アーメン終止」に向かって緩やかに高揚、昇華して行く。

(解説:諸岡 範澄)

D.ショスタコーヴィチ:交響曲第9番変ホ長調作品70

  • 第1楽章 Allegro 2/2 拍子変ホ長調
  • 第2楽章 Moderato - Adagio 3/4拍子 ロ短調
  • 第3楽章 Presto 6/8拍子 ト長調-
  • 第4楽章 Largo 2/4拍子 変口短調-
  • 第5楽章 Allegretto - Allegro 2/4拍子 変ホ長調

交響曲第7番ハ長調【レニングラード】(1941)、交響曲第8番ハ短調(1943)に続き、一般には「戦争三部作」の最終作と位置付けられている交響曲。

ソヴィエト連邦第2代最高指導者・スターリンは、初代レーニンの死去(1924年)を機に、数々の策謀を巡らせてトロツキーを始めとする政敵を陥れ最高権力を握ったが、その強引な政策(強制的な農業集団化、富農撲滅政策による処刑、ウクライナなどで農地や作物の収奪により大量の餓死者を出した(ホロドモール)など)に異を唱える者も多く、妻ナジェージダが夫のやり方に抗議して拳銃自殺(1932)したこともあり、その猜疑心を病的に強めたスターリンは、独断で「人民の敵」と称するレッテルを貼った人々を次々と逮捕、銃殺、暗殺、追放あるいはシベリアに送って強制労働させ、密告を奨励し、独裁政権強化に邁進した(大粛清1934-1938)。その犠牲者は側近を含む政治家に留まらず、優秀な軍人、思想家、芸術家など文化人、一般市民を多く含み、ショスタコーヴィチの友人・知人の多くも突如消息を絶った。大粛清による死者は200万人にも上るとされる。(1929年に国外追放され、結局メキシコで暗殺されたトロツキーは、「スターリンは他者の意見にではなく、その頭蓋骨に打撃を与える」と評していた。私邸の庭番の飼い犬がスターリンが就寝中の夜中に吠えたことに激怒し、飼い主の懇願を聞き入れずに犬を銃で撃ち殺した、というエピソードも伝わっている。)

1917年、ロシア革命が成就しソヴィエト連邦が成立した時、ショスタコーヴィチは多感な10歳の少年であった。新時代の象徴としてレーニンに奨励された前衛芸術(ロシア・アヴァンギャルド)の潮流の中で音楽を学び、当時の最新の語法を食欲に吸収し、初期の作品に強く反映させた。レニングラード音楽院の卒業制作として発表した交響曲第1番へ短調(1925)は、作曲の師・シテインベルクとグラズノフの保守的な指導もあり前衛色はさほど強くないが、それでも随所に独創的な表現を散りばめ、ソ連国内のみならず西欧でも高く評価され、現代のモーツァルトと謳われた。しかしスターリン政権に移行すると状況が一変する。美術、文学、音楽を問わず「難解な芸術」を毛嫌いしたスターリンは、「社会主義リアリズム」と銘打ったスローガンを打ち出し、大衆に理解し易く、何より国威発揚に貢献する作品の製作を芸術家に強要した。そしてそれに反すると断じられた作品と作者に対して、「西欧のプチ・ブルジョワ的」「退廃的」「形式主義」などとレッテルを貼り、容赦ない弾圧を行なった。当然ながらその矛先はショスタコーヴィチにも向けられ、政府直属の新聞「プラウダ」紙上で、歌劇【ムツェンスク郡のマクベス夫人】(1932)を「音楽のかわりに荒唐無稽」、バレエ【明るい小川】(1935)を「バレエの嘘」と無記名で断じられ、窮地に立たされた。大粛清の嵐が吹き荒れる中、それまでの集大成とした野心的な大作・交響曲第4番ハ短調(1936)を完成させ、初演のためのリハーサルも始めていたが、周囲からの忠告や楽員の否定的な反応もあり、結局公開を諦め、「机の引き出しの中」に封印したのである(初演は25年後の1961年にようやく行われた。)。その替わりに発表したのが交響曲第5番二短調(1937)である。第5番は当局から「社会主義リアリズムの理想形」と絶賛され、社会的な名誉は回復され、現在でも最も演奏頻度の高い交響曲である。ただし第5番にはいくつかの他作品からの引用があり、特にビゼーの歌劇【カルメン】のアリア【ハバネラ(恋は野の鳥)】からの旋律の引用が特筆される。第4楽章の主要主題の「ラレミファ(冒頭の短調が終盤では本来の長調に変化)は、【ハバネラ】での、合唱で叫ばれる歌詞が「気をつけろ!"Prends garde à toi!"」であり、その圧倒的な勝利感を演出する終結部には全くそぐわないメッセージを込めていたのである。(ちなみに第1楽章では同曲でカルメンが歌う"L'amour! L'amour!"の部分が引用されており、第4楽章への伏線となっている。)しかしそのことにスターリンや当局の人間は誰ひとり気づかず絶賛したのであり、ショスタコーヴィチは密かに舌を出したに違いない。ごく近い友人に「これが短調のピアニッシモで終わっていたらどうなっていたか、考えるだけで面白いね」と囁いたという。こうして一見「社会主義リアリズム」路線に従ったような作品に、実は様々な引用や特定の意味を持たせた音型を用いて別のメッセージを忍ばせるという、「二枚舌」の創作が始まったのである。

1941年6月、ヒトラー率いるナチス・ドイツ軍が、独ソ不可侵条約を一方的に破棄し、突如ソヴィエト領に侵攻した。スターリンはヒトラーの裏切りを当初は信じず対応が後手に回り、また大粛清で多数の優秀な軍人を処刑していたこともあり、ドイツ軍の電撃侵攻をみすみす許してしまった。劣勢の戦線から逃亡しようとしたソ連軍兵士を後ろから銃撃して多数死亡させたことも含め、膨大な犠牲者を出すことになった。ショスタコーヴィチの故郷レニングラード(現サンクト・ペテルスブルク)は2年半近く完全に包囲され、ドイツ軍の砲撃による直接の市民の犠牲者だけでなく、スターリンが食料・物資の補給に消極的だったため、夥しい数の餓死者、凍死者、病死者、闇市場における人肉売買による犠牲者を出した。そんな厳しい状況の故郷で着手したのが交響曲第7番ハ長調【レニングラード】(1941)である。第7番は「外見上」ナチス・ドイツの侵略による悲惨な状況に対して、祖国を愛する市民が力強く立ち上がり、厳しい闘争の末、輝かしい勝利を手にする、という文脈で聴くことが可能なため、ソ連を含む連合国側で大評判となり、アメリカでは映画化の話まで出た作品である(ショスタコーヴィチは映画化を固辞。)。連合諸国ではその初演権を巡って著名指揮者たちの間で争いが起き、また消防士のヘルメットを被ったショスタコーヴィチの肖像画がアメリカの「TIME」誌の表紙を飾る、といった当時の熱狂ぶりが伝わっている。しかし、レニングラードから当局によって強制的に疎開させられたクイビシェフで第7番を完成した直後、パーティーに招かれた隣人フローラ・リトヴィノワは、「ファシズム、それはもちろんあるが、ファシズムとは単に国家社会主義(ナチズム)を指しているのではない。この音楽が語っているのは恐怖、屈従、精神的束縛である」とショスタコーヴィチ本人が語ったと証言しており、また「第7番ではファシズムだけでなくソビエトの全体主義も描いた」(千葉2005など)との本人の発言も伝わっており、実際に第1楽章と第2楽章の主要主題に【スリコ】からの引用が認められるため、それらの談話に信憑性があると考えられるのである。
【スリコ】(譜例1)は、戦争で恋人スリコを失った若い兵士が、亡きスリコの姿を探して彷徨い歩くという哀しい歌詞を持つジョージア(グルジア)民謡であり、ジョージア出身のスターリンのお気に入りの歌であることがソ連国内では広く知られていた。【スリコ】は、スターリンとその取り巻きたちを痛烈に風刺した非公開作品【反形式主義的ラヨーク】(1948~)において原曲のまま引用されているだけでなく、交響曲第6番口短調(1937)第1楽章でも、サビの部分を変形させた引用が既に認められ、他に弦楽四重奏曲第6番卜長調(1956)、チェロ協奏曲第1番変ホ長調(1959)などにも引用されていることから、【スリコ】の引用は、恐怖と夥しい死を撒き散らすだけでなく、創作上の最大の障害でもあるスターリン、そして彼に類した権力の亡者たちの暗喩であると考えられるのである。

続く交響曲第8番ハ短調(1943)は、独ソ戦争の趨勢が有利に傾いてきた時期の作品である。当局の絶賛を呼んだ第5番、さらに第7番の巻き起こした世界的な熱狂は、おそらくショスタコーヴィチの想像以上のもので、特に壮大な勝利感による思考停止を伴うフィナーレを描くことの危険性(その高揚感によって新たな犠牲者を生む可能性もある)を認識し、そのような作品を書いたことに、ある種の罪悪感を覚えていたと思われる。第8番は「戦争と人間」というテーマに、より哲学的なアプローチで取り組み、極めて深刻で長大な第1楽章、戦争へと突き進んで行く人間を、それぞれ異なる切り口でカリカチュアライズしたような第2、第3楽章、思索的で沈鬱な第4楽章、そして瓦磔の焼け野から徐々に復興を進めていく人間を描くものの、勝利のフィナーレは置かずに、仄かな希望を見せながらも静かに消えるように終わる第5楽章で構成される。第7番以上の高揚感をもたらす新作交響曲を期待した当局にとって、戦局が好転していたにも関わらず、第8番は第1楽章の悲劇性を覆す勝利のフィナーレを欠くという点で落胆させる作品で、非建設的で厭世的であると批判した。無論ショスタコーヴィチはそのような批判は想定内だったようで、「シェークスピアなどに代表される古今の優れた悲劇作品は必ずしも非建設的で厭世的とは言えず、むしろ人間はその悲劇から、より良く生きるための学びが得られるのであり、自分もそれらに倣ったのだ。」と弁明した。しかしそれは受け入れられず、第8番は有害な作品とされ、1953年のスターリンの突然の死後、フルシチョフ主導による「スターリン批判」(1956)が行われるまで演奏禁止とされてしまった。しかし現在ではショスタコーヴィチの最も優れた交響曲のひとつとして再評価が進み、世界的に演奏機会が多くなっている。

そして1945年5月、ソ連軍はドイツの首都ベルリンに到達した。ヒトラーは自殺し、北東から攻めたソ連軍と、南西から攻めたアメリカ・イギリス連合軍はドイツを無条件降伏させた。(スターリンは独ソ戦の勝利をさも自分一人の功績であるように盛んにプロパガンダを行なった。その最たるものが、脚本に自ら手を入れ、史実と大きく異なる荒唐無稽な描写を含むソ連映画【ベルリン陥落】(1949)である。ショスタコーヴィチはその音楽を担当している。) 「失敗作」と看做された第8番の次作となる第9番は、奇しくもベートーヴェンの「第9」と同じ番号であり、ソ連の勝利とスターリンを合唱・独唱付きで賛美する、ベートーヴェンの「第9」に比肩するような、記念碑的な大交響曲になることを当局が期待したのは当然とも言える。実際そのような作品に着手したことをショスタコーヴィチは公式に語っており、第8番での名誉挽回も含めて、当局の期待は高まるばかりであった。しかし完成・発表されたショスタコーヴィチの「第9」は、力みの抜けたような楽しさはあるものの、合唱・独唱も、壮大な讃歌もない、嬉遊曲のような小ぶりの交響曲であった。初演した楽員には概ね好評であったが、壮大な叙事詩を期待した向き、特に第8番から続けて「肩透かし」を喰らった格好の政府関係者の落胆は大きく、根拠の有無は不明であるが、スターリンを揶揄したものと解釈した。皮肉に満ち、懐疑的で様式主義的と激しく非難してショスタコーヴィチを袋叩きにし、やがて「ジダーノフ批判」(1948)に発展し、ショスタコーヴィチは自己批判を強く要求された。それに応える形で発表したのが、オラトリオ【森の歌】(1949)や、前述の【ベルリン陥落】の音楽などであり、それらはスターリン賞を受賞し、国内での名誉は回復された。(【森の歌】の初演時、その大成功とは裏腹に、ショスタコーヴィチは大きな屈辱を感じ、ホテルの部屋で咽び泣き、ウォッカを痛飲したという。) 第9番のスコアを詳細に検討すると、どうやら政府関係者の言う「スターリンを揶揄したもの」との見方は、大筋で当たっていたようだ。しかしその明確な根拠は示されず、依然としてショスタコーヴィチのソヴィエト芸術の広告塔としての価値を認めざるを得なかったためか、第9番は演奏禁止までには至らなかった。西欧でも好意的に受容された第9番は、現在も第5番に勝るとも劣らない演奏頻度を誇っている。

2003年にショスタコーヴィチの遺品から発見された【交響曲断章】(譜例2)は1945年に書かれたもので、第9番第1楽章の初稿と考えられている。前述の「そのような作品に着手した」と発言した頃のものである。第9番と同じ変ホ長調で書かれているが、軽妙な第9番とは程遠い、ある種暴力的で単調とも言える表情の強奏で開始される。しかしながら第9番第1楽章第1主題と同様の、変ホ長調主和音の分散音型や、変ホ短調に傾くソ♭を強調する箇所などは共通しており、完成した第9番のアイディアの一端が既に現れている。そして何より興味深いのは、その冒頭楽想のすぐ後に木管楽器で奏されるフレーズ(譜例3)に、【スリコ】音型が含まれており、その後頻出するようになる点である。 自身の名前のドイツ語表記(D.Schostakowitch)の最初のDSCHを、D-Es-C-H(レミ♭ドシ)と音列化したもの(譜例4)を音楽的「署名」として使用していることは、交響曲第10番ホ短調(1953)や弦楽四重奏曲第8番ハ短調(1960)などで広く知られるが、DSCHの例に倣い、スターリンの名前の綴りを検証してみると、ショスタコーヴィチは第9番の変ホ長調という調性を、スターリンを表現するために選んだのではないか?という仮説が立つ。

ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン
Иосиф Виссаpионович Сталин
Iosif Vissarionovich Stalin
Иос → Es(ミ♭)、B → B(シ♭)、S → Es(ミ♭)と音名に当てはめることが可能である。

さらに、スターリン(「鋼鉄の人」を意味するペンネーム)の本姓であるジュガシヴィリ(Джугашвили、Jugashvili)にはG(ソ)が含まれ、それを加えると変ホ長調主和音が見事に出来上がるのである。 (ちなみに交響曲第12番二短調【1917年】(1961)には、スターリンのSをロシア語表記のCに置き換えたと見られる「ミ♭シ♭ド」という音型が第4楽章に頻出する。)

前述の【交響曲断章】では、当局の期待をよそに、苛烈なスターリンその人を音楽で表現しようとしたのではないだろうか。しかし書いているうちに自分でも嫌気がさしたのか、途中で放棄してしまい、第9番の作曲はしばし中断する。そして発想を変えて再開し、完成したのが現在知られる第9番である。ではどう発想を変えたのか?考えられるのは、スターリンそのものを描くのではなく、サーカスの、ピエロ(クラウン)による寸劇のように、ピエロにスターリンに似せた等身大の人形(ぬいぐるみ)を持たせ、滑稽な動作をさせたり、逆さ吊りにしたり、振り回したり、蹴飛ばしたり、投げ飛ばしたり、時には介抱したり...という、ドタバタで痛烈なブラックジョーク満載の音楽を第1楽章に設定したのではないだろうか。そう考えた途端にペンは勢いを得て、一気に全曲の完成に漕ぎ着けた、というのが、どうも真相に思えてならないのである。(「スターリンの肖像」は、交響曲第10番第2楽章で結実することになる(【ショスタコーヴィチの証言】)。その第1楽章のフルートによる第2主題の原型も【交響曲断章】に現れている。)

◆第1楽章

第1主題(譜例5)は、下行する変ホ長調主和音の分散音型に【スリコ】音型を繋げたもので、スターリン(の人形)を表す。それに「あっかんベー」をするように「ソ♭」を強調する音型を挟み、すぐさま冒頭主題を上下逆にした「反行型」が現れる。つまり、いきなり「逆さ吊り」にして弄んでいるのだ。ピエロと人形による様々なコミカルな動作をドタバタ風に展開させ、もう一度人形にあっかんベ一、逆さ吊りを再現して第1主題部を終え、トロンボーンによる威勢の良い号令に呼応し、軍隊的な行進曲で第2主題部が始まる(小太鼓によるタカタッタカ...というリズムは、幼少のショスタコーヴィチが最初に好きになったという、ロッシーニの【ウィリアム・テル】序曲の、【スイス軍の行進】に由来する。【スイス軍の行進】は、自身の人生の回想録とも言われる交響曲第15番イ長調(1971)第1楽章で、ほぼ原型のまま何度も引用されている。)。ドイツに打ち勝った兵士たちの勇ましいパレードが始まるかに思えるが、すぐにピアニッシモになり、入場した来たのはおもちゃのライフルを担いだ子供のピエロの兵隊さんたちである(ピッコロによる第2主題。譜例6)。もう一度号令がかかると、アリーナの反対側からやはりライフルを担いだ別の子供たちが行進してきて一緒に整列する。すると1944年にスターリンによって制定されたばかりのソヴィエト連邦国歌(現在のロシア連邦国歌とは歌詞が異なる。)の一節(譜例7)"Дружбы народов надёжный оплот!"(民族友好の頼もしい砦よ!)の部分を当てこすったようなフレーズがクラリネットによって妙に陽気に現れ(譜例8)、三度目の号令がかかると、人形をおんぶして見物していた大人のピエロも加わり、全員仲良く並んで退場して行く。そしていかにも「古臭い」古典派ソナタ形式風に、主題提示部が繰り返されるが、これは昔話ですよ、と断りを入れたものとも解釈出来る。続く主題展開部は、それまでとは異なる、いささかサスペンス的な曲調で開始され、人形の足首を掴んで走って引きずりながらピエロが再登場する。今こそ積年の恨みを晴らしてやる、と言わんばかりに、アクロバティックな動作を交えながら人形を弄ぶ。怒りが昂じたピエロは人形を力一杯振りまわし、最後は地面に叩きつけ(大太鼓の強打)、人形は中身の綿を飛び散らせて手足がバラバラになるが、ピエロはさすがにやり過ぎたと思ったか、拾い集めたところで暗転し、すぐに明るくなるともう人形はキレイに直っている(再現部の開始。暗殺を恐れる独裁者にありがちな、スターリンのそっくりさんによる替え玉という皮肉)。提示部に似た展開がドタバタと推移するが、今度はトロンボーンの号令が妙なタイミングで入り始め、現場は混乱し、高音弦による【スリコ】の変形も聴かれる(独ソ戦初期のソ連軍の、粛清されなかった無能な指揮官たちによる混乱への皮肉)。何とか号令が決まって第2主題部に入るが、主題はヴァイオリン・ソロに置き換わっている。提示部の変口長調から長2度低い変イ長調での再現であり、今度は女性のピエロの兵隊さんたちの入場であろうと解釈出来る(独ソ戦後期には、志願した女性兵士も少なからず加わっていた。)。今度はトランペットで「民族友好の頼もしい砦よ!」が現れ、クラリネットで第1主題が再現されると結尾部が始まる。ピエロ全員で人形を担ぎ上げてアリーナの外縁を一周し、最後に「1、2、3!」とタイミングを合わせて人形を高々と観客の中に投げ込んで終わる。

◆第2楽章

第1楽章のユーモラスな喧騒とは極めて対照的な楽章。極限まで切り詰められた少ない音で紡がれ、それが醸し出す虚無感は、戦争がもたらした、世界の全てが色を失ったような深い哀しみを感じさせる。そこにあるのは、ピエロの笑顔のメークを落として素に戻った人間の、人には見せたくない姿でもある。楽想のベースはゆったりとしたワルツであるが、まずクラリネットで歌い出される旋律(主題A・譜例9)は、ひと節ごとに4拍子を挟んで立ち止まり、ワルツの回転に身を委ねることが出来ない。そしてこの旋律は仄かにユダヤ音楽のイントネーションを帯びており、ファシズム・ナチズムによって過酷な運命を辿った人々に想いを馳せているかのようだ。(ショスタコーヴィチはナチス・ドイツによるホロコーストの恐るべき実態を1944年の時点で伝え聞いており、その年のピアノ三重奏曲第2番ホ短調の終楽章で全面的にユダヤの旋律を用いて鎮魂曲としている。)
殺風景な強制収容所の寒い部屋に押し込められた人々が、看守の目を盗んで身を寄せ、お互いの苦しみと温もりを分かち合いながら、共に懐かしい哀しみの歌を歌うような光景が木管楽器群で表現される。(反ユダヤ主義は何もナチス・ドイツの専売特許ではなく、ユダヤ人の住む世界各地に根強くあり、ソ連でも例外ではなかった。スターリンはユダヤ人によるイスラエル建国を、傀儡国家とする目的で支援していたが、1948年の建国と同時にイスラエルが西側陣営に回った途端に、反ユダヤ主義を公然と表し始めた。そして国内のユダヤ人を根絶やしにする計画まで立てていたが、1953年の突然の死により実行はされなかった。)ショスタコーヴィチはユダヤ系ではないが、多くのユダヤ系の友人がおり、魂の自由を束縛された自己をユダヤ人の運命と重ね合わせ、強いシンパシーを抱いていた。古来より「よそ者」として差別を受けて来た歴史から、常に喜びと哀しみのレイヤーを持つユダヤ音楽にショスタコーヴィチは強く惹かれ、多くの作品にユダヤ風の旋律を使っており、この第9番もそのひとつである。
仄暗い口短調から、最も悲痛な感情を表現するのに適すとされるへ短調に転調し、弱音器を付けた弦楽器による半音階を主体とする楽想が始まる(主題B・譜例10)。半音階はバロック以来の教会音楽において、キリストの受難を象徴するものであり、それが転じて苦しみ、痛み、不安の象徴として以後の多くの作曲家に用いられて来たものである。次第にそれらの感情が昂まり、やはり弱音器を付けたホルンによって補強され、木管楽器も加わって苦痛は切実さを増して行く。何故?何故堪え難い苦痛を人々に平然と与える無慈悲な人間が存在するのか?という、昔も今も変わらぬ、人間という生物の一面への根本的な疑問を投げかけているかのようである。苦痛に堪えかねてじっとしていられぬように、ヴァイオリンが8分音符の半音階のワルツを踊り出すが、次第にそれも出来なくなり力なく座り込む。口短調に戻って冒頭の旋律がフルートで再現され、それを受けたホルンのブリッジを経て、先の弦楽器による半音階の楽想が、今度はロ短調とロ長調を共存させ、悲哀の中に仄かな希望も漂わせて展開される。短調と長調の共存はユダヤ音楽の特色であるだけでなく、黒人差別の中で誕生したジャズの特色でもある(ブルーノート)。それに続く、ヴァイオリンからチェロに受け継がれるワルツは、へ短調の部分の最後に現れた時より幾分余裕を持って踊られ(半音階の前に全音を含めている)、辛い、苦しい中でも少しでも喜び、楽しみを見つけて何とか生き抜く、という意思の表明にも聴こえる。ロ長調と口短調のゆらめきの中で、再びフルートで冒頭主題が歌われ、低弦のピツィカートのパルスが止まると、フルートと二人のクラリネットが、立ち止まり、腕を組んで考え込むように、嬰ハ長調から嬰へ短調へと和音を少しずつ変化させながらうつむく。そして弦楽器群のピツィカートによって嬰へ短調から口長調に戻るファンクション(譜例11)が挿入されるが、そこで第2ヴァイオリンによって鳴らされるのは、それまで一度も現れなかった、憂いのないイ長調あるいは二長調の上行音階であり、苦痛の半音階ではない点に注目したい。ややテンポを落とし、ピッコロが噛み締めるように冒頭主題を歌い、ファ♯を一筋の光のように持続させる中、ピツィカートがロ長調と口短調の間を静かに摇らぎながら、微かなロ長調の響きで終わる。チャイコフスキーの遺作・交響曲第6番口短調【悲愴】(1893)第1楽章の終わり方の、遠いエコーも感じさせる。

◆第3楽章

クラリネットを皮切りに始まる(主題A・譜例12)、コロコロ転がるような16分音符の音階が印象的なスケルツォ。リズムのベースはイタリアの舞曲の一種である「タランテラ」である。南イタリアの古代都市タラントを語源とし、同じ語源を持つタランチュラ(大型の毒グモ)に噛まれた毒を中和するために踊り続ける「舞踏療法」に使われた舞曲に由来するという。曲は軽快で楽しげな印象を与えるが、次第に第2楽章の半音階(主題B・譜例13)が忍び寄り、やがて支配的になって行く。本来のタランテラのように、毒を中和するために無理矢理踊り続けるような様相を示し始め、幻覚のような奇妙な旋律(主題C・譜例14)が現れる。この毒を注入したのは一体何者だ?弦楽器による狂おしいリズムに乗ってトランペットが歌う旋律(主題D・譜例15)も半音階を主体としており、悲痛な叫びを感じさせる。踊りは苦しげに続けられるが、毒は中和されるどころか全身に回り始め、足はもつれ、身体はどんどん鉛のように重くなり、遂にうつ伏せに倒れこんでしまう。

◆第4楽章

トロンボーンとチューバによる、すこぶる威圧的なファンファーレ(譜例16)が始まる。それは一体何を意味しているのか?ショスタコーヴィチは彼の弦楽四重奏曲第6番卜長調(1956)の第3楽章に重要なヒントを残してくれていた。その第3楽章はチェロによるバス主題に基づく、抑制された哀感を湛えるパッサカリア(変奏曲の一種)である。チェロ、ヴィオラ、第2、第1ヴァイオリンと声部を増やしながら、合計7つの変奏が展開される。注目すべきは、チェロによるバス主題の前半部(譜例17)の音の並びが、3音めにソ♭(あっかんべーのソ♭と同じ!)を挿し挟んだ以外は、音の並びが威圧的なファンファーレのそれと全く同一であるという点である。ヴィオラから始まる哀歌の調べは、短調と長調の違いはあるが、【スリコ】の雾囲気と酷似しており、そのサビの音型そのものも聴かれる(譜例18)。そして四声部が出揃って以降、今度は交響曲第9番第1楽章のピッコロによる第2主題が、リズムが弾まない哀しげな表情で繰り返されるようになる(譜例19)。第5変奏の後に短い間奏が入るが、そこで第1ヴァイオリンが歌うのは(譜例20)、奇しくもスターリンと全く同じ1953年3月5日に亡くなった、作曲家仲間のプロコフィエフの弦楽四重奏曲第2番【カバルダ風】(1941)第2楽章のチェロによって奏される主題(譜例21)の引用である。(スターリンの死を悼み、赤の広場へ向かう群衆とは正反対の方向に、プロコフィエフの柩をショスタコーヴィチと音楽仲間で担いで歩いたというエピソードが伝わっている。)それらのことから、弦楽四重奏曲第6番の第3楽章がスターリン及び交響曲第9番と密接に関連していることはもはや明白である。そして威圧的なファンファーレがスターリンを表し、そのファンファーレがベートーヴェンの「第9」第1楽章第1主題に特徴的な「付点リズム」を纏っている点から、ベートーヴェンばりの壮大な賛歌を私のために書け、というスターリンの圧力のファンファーレであり、続くファゴットによる悲痛なモノローグによって、ショスタコーヴィチの「そんな愚劣なものを書ける訳がないじゃないか...一体どうしたらいいんだ...という苦悩が表されていると理解されるのである。つまり前の第3楽章で全身に回ったのは、他ならぬスターリンの圧力という毒であり、それに踊り続けさせられる自分と民衆を表していたのだ。この第4楽章はベートーヴェンの「第9」第4楽章冒頭のパロディとしても機能している。バス独唱のレチタティーヴォによって語られる、(それまでの第1~第3楽章を指して)このような音ではなく、もっと心地よい、もっと喜びに満ちた歌を歌おうではないか」に呼応し、あの有名な二長調の「歓喜の歌」を導き出す場面である。さて、ショスタコーヴィチが自分の「第9」で導き出した歌とは...?

◆第5楽章

前楽章のファゴットのモノローグが、深いため息と共に考え込むように沈み、「うーーーーーーん」と長くうめいた先に、ショスタコーヴィチの「歓喜?の歌」がぽつぽつと歌い出されて第5楽章が始まる。切れのよい3連音符と、半音と全音の混ざった上行音階と下行音階が繋がれ、迷うような、喜びと哀しみと滑稽さが混ざったような旋律(譜例22)が、ファゴットにしか出せない、ユーモアとペーソスを兼ね備えた味のある音色で示される。しばしためらいがちに歌が続くが、「愛の呼びかけ」とされる6度音(変ホ長調ではドに相当)に応えるように第2ヴァイオリンとヴィオラがリズムを刻み始め、第1ヴァイオリンがファゴットの旋律を第1主題として確保し、音楽が動き出す。続いて2人のクラリネットが交互に同じ音を出す独特な響きの伴奏に乗って、第1主題の3連音符を受け継ぐ形で、オーボエがくねくねと曲がるような新しい旋律(譜例23)を歌い出す。これは増二度や非和声音を多く含むユダヤ音楽の音階の特徴を強く持っており、この交響曲がスターリンのためではなく、主にどのような人々に向けて書かれたのかが、早くも暗示された格好であり、この曲を聴いたユダヤ人の多くはそれに気付いたはずである。フルート、そしてピッコロが加わって第2主題として確保され、第1主題をもう一度木管が歌い(第1と第2主題が仲間になったように)、最後にクラリネットとファゴットが次の新たな主題を準備する。その第3主題(譜例24)は付点リズムによる半音階の下行を含むハ短調の哀しげな旋律で、その半音階の前にソを三回反復する特徴的なものである。この同音反復もユダヤ音楽によく見られるもので、その表情から、囚われの身になっている人々を象徴していると思われる。(また一瞬であるが、モーツアルト交響曲第40番卜短調の第4楽章の主題も顔を出す。その楽章は「死の舞踏」を連想させるものである。)それを伴奏する低音弦のリズムは、サーカスのピエロの入場曲として使われたことで有名な、フチークの【剣闘士の入場】(1897)の旋律(譜例25)のリズムに基づいており、再現部で第3主題が現れる際に重要な役割を果たす事になる。その途中で金管と小太鼓による短い工ピソード(譜例26)が挿入されるが、これは交響曲第7番第1楽章で大々的に扱われる「侵略のテーマ」(個人的には「プロパガンダのテーマ」と解釈している。譜例27)を、その第4楽章で現れる、勝利を意味するモールス信号のリズムの後に繋げたもので、すぐにはそれと判らない程度に変形したものである。街の至る所に貼られたプロパガンダのポスターを横目で見ながら、足早に立ち去るイメージだろうか。フォルテで第3主題が確保された後、サスペンスフルな展開部が始まる。低音弦による第1主題が主体となるが、ホルンの低音とティンパニが演出する石畳の冷たい道路の下の水道路に潜んで、レジスタンスのように何やら画策している雰囲気である。抑圧され、自由を失った人々を開放するための「救出作戦」だろうか、時折クラリネットで第3主題が示され、収容所の中の人々の境遇に想いを馳せる(第1楽章の「号令」もオーボ工によって遠くに聴かれる。)。ティンパニとチューバの低音による合図をきっかけに、いよいよ第1主題による救出作戦が開始される。緊張感が高まる中で捜索を進め、ようやく囚われた人々を発見、確保する。喜びも束の間、今度は第2主題を主体とした逃走劇が展開される。監視兵に発見され、低音金管のシンコペーションによって激しい追跡を受けるが何とか振り切り、ついに救出作戦は成功し、囚われた人々は解放される。第1主題による力強いパレード、そして第3主題による、ひどく痩せ細ってふらふらだが、表情は心から晴れ晴れとした人々のパレードが、ピエロの入場行進のリズムに乗って続く。ショスタコーヴィチ自身の抑圧された魂の解放と、囚われ、虐げられた人々の解放を重ね合わせた、自由への強い希求が込められた行進である。そしてテンポを速めて始まる結尾部は、壮大で崇高な勝利のフィナーレではなく、自由でとても人間臭い、どんちゃん騒ぎの祝勝パーティである。シャンパンファイトよろしくウォッカを掛け合いラッパ吞みする者、静かにちびちび酒を味わう者、料理をひたすら食べる者、葉巻をもうもうとふかす者、踊る者、歌う者、演説する者泣き上戸の者、ポーカーやビリヤードやパイ投げに興じる者、酔い潰れる者たちが渾然一体となってドタバタを続け、佳境となったところで「チャンチャン」と潔く幕を閉じる。その最後の「チャンチャン」は、シ♭とミ♭、すなわち逆さまのスターリンである。

以上のストーリーはもちろん私の分析に基づく解釈による想像を含み、私が14歳の年に死去したショスタコーヴィチに今さら真意を確かめる術もないが、少なくとも、当たらずとも遠からずではないか、という自信はある。

ロシアの土地と芸術文化、そして地元のプロサッカーチーム(ディナモ・レニングラード)をこよなく愛したショスタコーヴィチは、西側に亡命して自由に生きる道でなく、独裁体制とギリギリ折り合いをつけつつ密かに反発し、表現上の厳しい制限の中で模索し、創作し続ける茨の道を生きた。戦争の影も濃く、自ら「私の作品の多くは墓碑である」と語ったように、暗く重い作品が多い一方、人間の様々な有り様を独特の天才的な筆致で、鋭く、時にユーモラスに描くことを得意としていた。(1905年の第一次ロシア革命の発端を扱った交響曲第11番卜短調【1905年】(1957)は、多くの革命歌を引用した典型的な社会主義リアリズム路線の作品であるが、帝国の圧政の改善を求めて王宮前の広場に平和的に集まった群衆に、皇帝軍が一方的に銃撃を加えて多数の死傷者を出した「血の日曜日事件」の描写において、鬼気迫る筆致の冴えを見せており、彼がどのような素材に強いモチベーションを得るのかという一端が見えて興味深い。)戦後西側ではソ連の御用作曲家と見做され軽視されがちだったが、近年作品研究が進み、苦悩し続けた故に得られた深さと、隠された二面性が浮き彫りになって来ている。スターリンを公然と称賛するプーチンを始めとする強権主義者たちによる専横が世界に暗い影を落としている現在、ショスタコーヴィチの音楽は輝きを増している。今だからこそ彼の音楽に触れ、人間のあり方について思索すべき時ではないだろうか。特に若い人たちに推奨したい作曲家である。

(解説:諸岡 範澄)

J.シベリウス:組曲【カレリア】 作品11

カレリアはフィンランド南東部からロシア国境あたりの地域の名称で、森や湖が広がる自然豊かな場所である。シベリウスは新婚旅行でカレリア地方を訪れ、その翌年にカレリア地方の歴史を題材にした舞台劇【カレリア】の付随音楽の作曲をヘルシンキ大学のヴィープリ学生協会より依頼されたことから、序曲と8つの情景の音楽を作曲した。その後、合唱付きの曲を含めたこの劇音楽の中から8曲を選び管弦楽組曲として演奏されることになる。そして組曲はさらに絞られ、劇中では第3、第4、第5の情景として演奏されていた3曲で構成された組曲【カレリア】となる。当時作曲された劇音楽からは、他に序曲【カレリア】作品10が残されている。

◆第1曲 間奏曲 Moderato 2/4

変ホ長調の優美さを持った明るい曲調。さざ波のような弦楽器の音伴奏は広大な針葉樹林を連想させ、ホルンのメロディーはお城から鳴り響く行進曲のようである。遠くからだんだんと輪郭を表しながら盛り上がりをみせ、トランペットとトロンボーンが高らかに主題を鳴り響かせながら盛大な行進が始まる。大きな頂点を迎えると余韻を残しながらだんだんと遠ざかっていき、冒頭と同様の弦楽器の刻みと共にホルンによって穏やかに山々を見渡すように終わる。

◆第2曲 バラード Tempo di menuetto 3/4

哀感漂うメヌエット風の響きの中にノスタルジックな雰囲気を醸し出す。後半のイングリッシュホルンのソロは、劇中ではバリトン独唱による吟遊詩人が歌う場面で奏でられている。スウェーデン語で"夕暮れ遅く霜の降りるころ、あなたは私を待っている。駆けていくのは少年の乗った灰色の馬"という歌詞がついている。

◆第3曲 行進曲風に Moderato 2/4

新緑のように爽やかなイ長調の音色と、温かで土の香りのするヘ長調の音色を合わせ持つ行進曲。 劇中では16世紀のカレリアの情景の場面。弦楽器の軽やかな付点のリズムの第1主題と、金管楽器のファンファーレの第2主題が交互に登場しながら、明るく爽快に堂々と組曲を締め括る。

(解説:名郷根 文香)

J.シベリウス:交響曲第2番 ニ長調 作品43

この曲のスケッチを始めたのは交響曲第1番の初演の2ヶ月後の1899年6月ごろであったが、交響曲以外の作曲に追われて順調には進まなかった。そんな中、自身の3番目の娘キルスティを病気で亡くし、ひどく落ち込むシベリウスはパトロンのカルペラン男爵の提案で家族と共にイタリアへ長期旅行をすることになる。ジェノヴァ郊外リヴィエラ海岸沿いにあるラパッロという小村で滞在を始めたが、極寒のフィンランドとは全く異なり冬でも暖かいこの地を「魔法がかかった国」と評し、イタリアの文化や風景、芸術作品に触れることにより様々な着想を得てスケッチを進めていった。しかし、イタリア滞在中にも2番目の娘ルースが病に倒れ、精神的に参ってしまったシベリウスは家族を置いて単身ローマへ。ローマにて交響曲第2番のおおよその形が出来上がり、その後家族と合流し帰国した。フィンランドでも作曲を進め、1902年3月に自身の指揮で初演を迎え、大成功を収めた。シベリウスは調性に色を感じたそうで、交響曲第2番のニ長調は黄色、あるいは光り輝く金色のイメージである。

◆第1楽章 Allegro 2/2拍子 変ホ長調

ニ長調から始まるさざ波のような弦楽器はまさしく水面の柔らかな揺れを表現しており、この楽章において随所で奏でられる音型である。次いでオーボエとクラリネットの軽やかに踊るような第1主題にホルンが応えるという一連の流れは長閑な田園風景が思い浮かぶ。 弦楽器のピチカートの盛り上がりの後、木管楽器による第2主題が登場する。夜の暗闇の中で魔物たちが跳梁跋扈するような奇怪な展開部を経て、絶対的な存在である太陽の偉大さに感謝を捧げ、シベリウスが愛した自然の美しさを描いた楽章である。

◆第2楽章 Tempo andante, ma rubato - Andante sostenuto 4/4拍子 ニ短調

ニ長調の第1楽章から転じたニ短調のこの楽章は『死』をテーマとした葬送行進曲を基調とする。前述した通り、イタリア滞在の前年に愛する娘の死という絶望を味わい、さらにイタリア滞在中に同じ病に罹ってしまった娘の病状(幸いにも治癒した。)に追い詰められていたシベリウスは、『死』という誰もが逃れられない運命を強く感じたのであろう。ティンパニのトレモロの後、コントラバスとチェロのピチカートに乗せて奏でられるファゴットの第1主題は「ドン・ジョヴァンニ伝説」から着想を得た幻想的なメロディである。そしてグレゴリオ聖歌『怒りの日』の音列を織り込んだ荘厳な金管楽器のコラールの後、一旦静まり奏でられる嬰ヘ長調の弦楽器の調べは、イタリアで見た教会やキリストをイメージしている。『死』に対しての救いや慰め、祈りを込めた美しい響きである。その後は2つの主題が入り混じりながら展開していき、最後は2つのピチカートが『死』の勝利を暗示して締め括る。

◆第3楽章 Vivacissimo - Trio. Lento e suave - attacca 6/8拍子 変ロ長調

弦楽器から始まる疾風のような速いスケルツォ。管楽器の旋律を乗せてどんどん進行していき、一度クライマックスを迎えると場面はガラリと変わり、オーボエの牧歌的な変ト長調のメロディが美しく奏でられ、長閑な雰囲気を作り出す。そんな空気も金管楽器とティンパニによって突然断ち切られ、再び速いスケルツォが始まる。その後もやはりオーボエの牧歌が奏でられるが、次第に楽器が加わっていき、第4楽章の第1主題の片鱗を見せながら盛り上がりは最高潮を迎え、そのまま4楽章に突入する。

◆第4楽章 Finale. Allegro moderato - Moderato assai - Molto largamente 3/2拍子 ニ長調

長い冬を終えた後の春のような雰囲気を持って、気持ちがふと軽くなったように伸びやかなニ長調の第1主題が歌われる。それに対してトランペット、続いてホルンが勇壮な響きを持って応える。その後もドラマティックなメロディで進んでいくが、低弦の嬰へ短調音階によるオスティナートの上で木管楽器によるサラバンド風の第2主題が登場し、暗く冷たい冬の空気を漂わせる。これは自死したシベリウスの義姉を想って書かれたメロディだと考えられている。嬰へ長調へ転調した後、第1主題を中心とした展開がされていき、時折不安定さを感じさせながらもだんだんと盛り上がりを見せ、第1主題がより一層輝かしく再現される。ニ短調に姿を変えた第2主題が再び登場し、長い冬が始まる。繰り返される音型の中で長調に転調する気配を感じさせながらも、短調のまま時間をかけてじわじわとエネルギーを増し、ついにニ長調に転じてオーケストラ全体が鳴り響くクライマックスを迎える。最後はオーボエ、トランペット、トロンボーンが高らかに第1主題から派生した新たなコラールを歌い、太陽と大自然を賛美するように、華々しく壮大に交響曲の幕を閉じる。

(解説:名郷根 文香)

諸岡範澄:マーチQ 作品9

'96年度五美管秋の演奏会シリーズに向けて、当時の団員による楽器編成にマッチするアンコールピースがなかなか見つからず、ならば作っちゃいましょうと数日ででっち上げた曲である。同年の初演以降数年間演奏していただいたが、楽器編成の都合もあり別の曲になって以降、代替わりを重ね、私も特にプレゼンテーションをしなかったため、現役団員には長らく知られぬ存在になっていた。時は流れ、'19年、五美管が創立40周年を迎え、記念演奏会のために東京五美術大学OBOG管弦楽団が新たに結成された。選曲に際し、五美管在団中に本曲を演奏して下さった世代の方から「マーチQをもう一度演奏したい」との思わぬご要望をいただき、20数年ぶりの再演の機会が訪れた。するとそれを聴いた現役団員から「私たちも演奏したい」との申し出があり、早速その年の秋の演奏会シリーズで演奏され、五美管のレパートリーに復活した。翌'20年、チューバの団員が卒団したことを受け、オリジナルからオーケストレーションを変更した新版を作成したが、折悪しくコロナ禍に突入し、五美管は活動停止に追い込まれ、新版も宙に浮くことになった。2年半近くに及ぶ停止期間中、消滅の危機に瀕していた五美管は、団幹部さんたちの涙ぐましい努力のお陰で消滅を免れ、'22年も半分以上が過ぎた頃、ようやく実活動再開に漕ぎ着けた。OBOGの助力もあり、非公開ではあったが復活演奏会が開かれ、新版も初演することが出来たのである。'24年、新たにチューバの団員が加わったのを受け、'20年版をベースに更に改訂を加えたものが今回演奏していただく版である。題名は作曲当時、たまたま自らの9番目の作品であり、また幼少時から大ファンだったSF特撮ドラマにあやかってQとしただけで、特に深い意味はない。40周年時のお申し出により、私が五美管に関わらせていただく以前の方々も含む、ほぼ全世代の五美管卒団生の方々に知られる曲にしていただいたことは、私にとってこの上ない幸福である。

(解説:諸岡 範澄)